何を見てるの、といわれた。そう尋ねてきたテーブルを挟んだ向こう側の彼女を見ていない代わりに見ていたものなどは特になかった。俺は何も見ていなかった。クリーム色と黄色の中間のような色をした壁に掛かった額に入った白黒の写真も忙しなく動き回るウエイトレスも手振りをつけて何か喋っている自分と同年代に見える少年の落ち着きのない後頭部もたった今カランカランと喧しい鐘の音がなる扉を押し開けて入ってきたスーツ姿の少し疲れた顔のサラリーマンも、今はじめて認識した。見ていないどころか、音すらも聞いていなかった。此処は随分と騒がしい。彼女の顔をちらりと横目で見てから、俺は溜息の混じった息を吐いた。指先で目頭を押さえて、唸るように言う。疲れてるんだ、途端彼女は心配したような声音で俺に斜め下から見あげるような視線を投げて大丈夫と尋ねた。何となく、本当に何となく、その仕草が気に入らなくて、今度はそうだとわかる溜息を吐いた。ゴメンね、帰る、席を立った。追いかけてこようとする彼女の倍の歩幅で歩いてさっさと会計を済ませて喧しい鐘のなる扉を引いて開けて、むわっとする熱気の立ち込める空気を思いっきり吸った。じわりと汗が肌に浮かぶ。だけどどこか心地よかった。テニスがしたいな。思った丁度何度か見かけた姿を通りの向こうに発見した。瞬間視線がそこに固定されて、絡みついた熱が消えた。右手を上げて、声が届く程度に張り上げる。不動産の伊武君、今からテニスしませんか。彼は面倒臭そうに顔だけこちらに向けて、笑顔を浮かべた俺を見て仕方ないといった風に頷いた。急いで駆け寄ると彼は胡散臭げな表情をしていた。だから、どうかしたと尋ねると、彼は一度俯いてから俺の顔をじっと見つめて、また面倒臭そうに言葉を紡いだ。

「ところでどちら様でしたっけ」
「山吹の千石です。…知らない人と話しちゃいけないって言われたことない?」
 彼は一度もありませんとはっきりと言った。その凛とした声に、そういえば今は真夏だと思い出した。周りの気温に比べて、彼はどこか涼しげだった。思い出した熱が肌に沁みる。彼はそんな俺を無視して歩き出した。
20060903