手の平の体温と隣に座る君の冷たい体温が一緒になって、
 まるでぬるま湯に浸かっているような気分だった。

 



 

 

 都内某所に存在する山吹という名の中学校の校則が、決して緩いというわけではない。
 真っ白い制服の群れに通常ならば黒い髪。多少茶色混じりはいるものの、その程度ならば地毛でもありえるし多少ならば目も瞑れる。しかしオレンジの髪の毛や若くして真っ白な髪の毛というのは流石に目に付く。両者ともテニス部所属の将来期待の選手、千石清純と亜久津仁だ。
 決して緩くはない校則の中でそんな二人が堂々としているのは、前者は誰がどう話していてもうまく人を煙に巻くような話術を持っているし後者は有無をいわさず暴力に訴え出るためだ。話しても無理なのだからと教師陣は全員諦めの溜息だけをこぼすのが毎日だ。

「あっくんは次の授業出るー?」
「………屋上」

 今日もそんな毎日のうちの一日だった。その中でそんな会話が聞こえる。広めの廊下の真ん中を周りを気にする事無く歩いていた二人組の男が互いの顔も見ずに、へらへらと笑いながら、眉間に皺を寄せたまま。歩く度に千石のオレンジの癖毛の髪と亜久津の白い髪が揺れる。
 二人は別段大きな声で話しているわけではないがその声は廊下の端から端まで響いていた。周りには何人もの生徒がいるのだが全員が黙って口を閉ざしてしてるせいだ。その原因は普段あまり学校に顔を出さない亜久津仁のその存在と不機嫌そうな眉間の皺の為なのだが、亜久津は別に機嫌が悪いわけではなかった。生まれつき人相が悪いだけで、それがわかっているから千石はいつもへらへらと笑いながら亜久津に話しかけるのだ。それが周囲からは勇者並の度胸だと思われているとは知らずに。

「屋上って…ちゃんと会話しようよ。会話はキャッチボールだよ」
「変化球しか投げないくせに偉そうに云うな」
「変化球?」
「お前、ついさっきまで何の話してた」
 亜久津にそう云われて千石は瞬きを数回したあと、正方形と長方形のどっちが好きか、と何も考えていないような顔で答えた。五分後にはじまるであろう授業の内容が数学だというわけでもないし何か前触れがあったわけでもなくそんなことを云い出せば充分変化球に分類されるであろう事を千石はわかっていなかった。
「ふぅん、ま、どうでもいいんだけどさー………あれ?」
 自分から話をふっておいて興味無さ下に話を打ち切った千石は不意に亜久津の向こうにあった窓の外に目をやって、普段あまり表情の現れることのない目を丸くさせた。
「なんだ?」
「伊武君だ。どしたんだろ、…俺帰るから。あ、鞄とってこなきゃ、じゃね!」
 隣の男との会話も捨てて千石はさっさと自身の教室へと向かって軽く駆けて行った。亜久津はその後姿をぼんやりと見送って、先程千石が見つけたモノへと視線を向けた。
 見えるのはぴっちりと閉められた校門、その向こう側に植え込みがあるのだが、そこに一人の少年が足を組んで腰掛けている。千石と亜久津がいるのは三階で、その少年の位置も探さなければ目に付くようなものではないというのに容易に気付いて見せた千石の、それは流石評価されるだけの事はある動体視力だ。亜久津はそう思いながら、しかし理由はそれだけではないんだろうとも思っていた。
 平均に比べると速い足を持つ千石の姿はとうに廊下の角を曲がって見えなくなっている。
 亜久津は窓の外の風景から目を逸らすと、当初の目的どおりに屋上へと向けて足を進めたのだった。

 

「伊武君!」
 教室から自身の鞄を回収し終えた千石はその勢いのまま、途中で声をかけてきた級友や窘めるような声音を上げた教師らを無視して、全力でだだっ広い校庭を突っ切るように走ってくると身長より多少高いくらいの門の柵に足をかけて余裕を持ったまま飛び越えて冷たいコンクリートの地面に着地してそう叫んだ。植え込みに腰掛けていた少年、伊武深司はいきなり現れた千石に驚きもせずにただ一言、こんにちは、と呟いた。
「どうしたの伊武君、珍しいね、授業どしたの?もしかしてなんか嫌なことあった?」
「いきなり来てよく喋りますね」
 全力で走った割に息切れの一つもしていない千石が少し焦ったように早口で喋るのを伊武は自身の声で止めると、立ち上がってスタスタと歩き出した。千石は困惑を表情に浮かべながらもその隣に並んで一緒に歩き出した。

 空は晴れてて白い雲の一つもない。十一月に入ったばかりなのだが充分に冬を感じさせる気温に肌寒さを感じて千石はポケットから取り出した煙草を一本咥えて火をつけた。別に寒さが和らぐわけではないがそれだけで千石は満足して冷たい空気に丸まりかけた背を伸ばした。

「で、どうしたの?」
「どうしたと思いますか」
「俺に会いたかった、とかじゃないんでしょ?神尾君と喧嘩とかかな」
 先程亜久津と居た時とは違う笑みを浮かべながら千石が云った。伊武は大きくも小さくもない普段どおりの声でよくわかりましたねと答える。声は平淡としたもので間違っても喧嘩をして荒れているようにも悲しんでいるようにも消こえない。
「喧嘩するほど仲がいいっていうよね」
 白い煙を吐きながら千石が笑った。
「理由は?」
「…………えェと?」
「あー、色々云ってくるクラスの子と喧嘩になりかけて止めようとした神尾君に苛ついて?」
 一体なんだったかなと思い出すように眉根を寄せた伊武の代わりに、千石が思いつく中で一番有力な説をあげて云ってみせると伊武が頷いた。
「あァ、そうです。石田達が止めに来る前にこっち来ました」
 伊武深司と神尾アキラの喧嘩、というのは別段珍しいものではない。
 二人の間に直接諍いが起こるわけではない、いつも伊武とその他の誰かの諍いを止めるために神尾が止めようとして何故か伊武と神尾の喧嘩に発展してしまうのだ。伊武は見た目とは反して短気なのだ、喧嘩を途中で止められた上に神尾が相手に味方についたりすれば友人といえども頭にきて文句の一言二言いってしまう。そして神尾も短気だというのが問題だ。
「それは正解だったね」
 千石がそう云う。喧嘩の仲裁に入った神尾と喧嘩したとなれば他の級友達から話は同じテニス部員へと回される。頭も口も回るうえ妙に腕力もある伊武を止めるとなるとどうしてもやり辛いものがある。その辺、同じような境遇の中同じように育ってきた同じテニス部員ならばその対応にも長けている。
 ならば何故喧嘩の途中で仲裁もきかずに出てくることが正解かというと。
「伊武君って神尾君達の前だと子供っぽいよね。羨ましいな」
「なにがですか」
「俺の前でもそうだといいな〜って。我侭とか云って欲しいわけよ、お兄さんは」
 普段の伊武は意識しているわけではないが周囲に対して感情を押し込める傾向がある。黙っていて時間が流れるのなら流してしまうし敢えて幅の広い付き合いを求めたりもしない。喧嘩だって売られない限りはしない。しかし付き合いも長い神尾をはじめとしたテニス部員にはそういうこともしなくなるので遠慮せず喋るし悪態もつく。
 神尾との喧嘩の途中に好きなだけ物をいえる人間が入り込んできたらそれも巻き込んでの乱闘まがいの口論大会に発展することは千石の目には見えている。常識も理性も兼ね揃えているので口論で済むのが救いなのだが。
 再度煙草の煙を吐き出すと、千石は隣に並ぶ伊武の頭を何度か撫でた。
 口論ならば圧倒的に伊武が有利で、五人対一人なんていう状況でも決して負けはしないし完膚なきまでに叩くことだって出来るのだが、伊武だってまだ子供だ。友人とそんな喧嘩をしたとあっては自分が正しいとしても気になるのだ。
 以前伊武はそんなことがあって、見た目こそいつも通りなのだが内面は落ち込み気味にあったのを千石は知っていた。それから喧嘩をしたらすぐ俺のところに来なさいといい聞かせていたのだ。
 喧嘩はするな、と云わないのはしなければしないで苛つきが溜まるだけだと分かっているからだった。

「今日は俺のところに泊まりなね。話したいこととかもあるし」
「はい。……千石さんは授業よかったんですか?」
「俺?うん、どうせサボる気だったしね。それに帰りは伊武君のトコいく気だったし」
 放課後になると不動峰の校門前に千石が立っているのは最近では当たり前の光景だ。それが伊武を迎えに来ている、と知っているのは練習熱心なテニス部よりも遅くまで学校に残っているという一部の人間だけで、しかもその千石と伊武が実は付き合っているなんて事を知っているのは今のところ神尾アキラただ一人だ。
「迷惑かけてごめんなさい」
「伊武君にかけられる迷惑だったらもっとあってもいいんだけどなァ」
 相変わらず平淡な伊武の声に苦笑混じりの千石の声が続けられる。
「あ、ところで伊武君何処に向かって歩いてるの?」
「さァ。特になにも考えてませんでしたけど」
「じゃあちょっと戻って左に曲がろうね。俺の家過ぎてるから」
 短くなった煙草を胸元のポケットに入れていた携帯灰皿の中にしまうと千石は伊武の腕を引いて言葉どおりに歩き始めた。生まれつき様々なことに無頓着な伊武と歩くとこういう事はしょっちゅうだし意味のない時間を過ごすこともあるのだが、千石は伊武といるだけで意味があると言い切れる人間なので二人の間に問題が起こる事は無かった。趣向の違いですら互いに、あァそうなんだで済ませることが出来るのだ。喧嘩するほど仲が云いというが、喧嘩しないほど仲がいいとも云えるのだ。最も、千石の伊武だけに対する異常なまでの許容量の広さが無ければ成り立たないのだが。




「ただいまー、って誰もいないけどね、どうぞあがってー」
「お邪魔します」
 自分で持っている鍵で自分で玄関の扉の閉まっていた鍵を開けて尚ただいまという言葉を口にする千石を律儀な人間だと伊武は思っている。
「伊武君部屋で待っててね、なんか飲み物とか持って行くから」
「はい」
 螺旋状の階段をあがって一番奥の部屋が千石の自室だ。扉を開けるといつもどおりに綺麗に片付けられた部屋が待っていた。
 外見や性格からは想像つかないような部屋だ。必要最低限以外は物を置かないし散らかしもしない。コンクリート剥き出しの壁は幾らか写真などが飾ってあるが決められた風景の一つのようでどこか寒々しい。それに千石は部屋に人を招くのことがあまり好きではないのでこの部屋には千石以外の気配がまるでない。
 その部屋の中心の黒い革張りのソファに伊武が座る。
 そうすると千石の気配しかない場所に自然と溶け込んでしまうので、以前一度だけこの部屋を訪れたことのある神尾は眉を顰めた。親友が、誰かの空間にいて違和感がないということが違和感なのだ。千石という人間がそこまで伊武を受け入れてしまっているというような状況にもその感情を抱いてしまう。それから神尾は二人で一人みたいな感じだなと明るく納得したが、それは二人でいなければ駄目になってしまうという依存性の暗がりを見ていないだけでもあった。
 最も、そんな事は当人達にとってはどうでもいいようなことであったが。
 どうせ離れろといわれても離れたりはしないのだから。

「紅茶でよかった?」
 足音も静かに部屋に現れた千石に伊武は、なんでもいいです、と頷いた。
「なんか緑茶切れててさ、まァ微妙かも知んないけど」
「なにがですか?」
 紅茶と同時に目の前に置かれたおはぎの乗った皿に、伊武は納得した。
「米と餡子の組み合わせがダメって人いるよね。俺結構好きなんだけど」
「俺も好きですよ。…千石さんって好き嫌い少ないですよね」
「うん?んー、食べ物に関してはね。あるよ好き嫌い、煙草とかには」
「なんか違うんですか」
「味とかにおいとか。吸ってみる?」
 千石は伊武の隣に座ると箱ごと煙草を伊武に向かって差し出したが、伊武が一も二も無く断ったので大人しく自分が吸う一本だけ取り出してしまった。
「体壊しません?」
「壊すと思う?」
「平気そうですよね、千石さん」
「伊武君も受動喫煙とかじゃやられたりしなさそうだよね」
 冗談っぽく笑う千石に伊武は特に何の反応も返さずにただ、そうですね、と云った。
 部屋の天井付近まで煙草の煙は伸びては消えていく。暫らくは千石が取り留めなく会話を続けていたのだが、それがぷつんと途切れる瞬間がある。伊武から話しかけるという展開はほぼゼロに近いので自然と沈黙は続く。
 二人の間には喋らないと気まずいという概念はない。
 それは千石が伊武がいるだけでいいと考えているのもあるし、伊武も無意味に喋り続けるよりはただ近くにいればいいと思っているからだった。

 そしてそんな沈黙の後に、会話は突然はじまる。
 亜久津仁の云うとおり、千石の話は大体が常に変化球だ。きっかけがなくても言葉を口にするし相手の返事を気にせずに話を続ける。
「天気もいいしやることもないし、昼寝でもしようか」
「…天気は関係ないですよ」
「日向ぼっこと同じだよ」
 全然違います、という伊武の言葉を聞いてはいるが受け流しながら千石は立ち上がると壁際のベットから布団を取って戻ってきた。そしてまたソファに座って自分と伊武とに布団をかける。昼寝という時間でもないのだが、隣の千石の体温と布団の柔らかさから何となく睡魔を感じて伊武は何も云わずに目を閉じた。
 うとうととしはじめた伊武の髪を撫でながら、千石は咥えたままだった煙草を灰皿に押し付けた。

 頭を撫でて傍にいて。そんな単純なことでも友人と喧嘩したという妙な重みを持つ事実は軽くなるのだ。
 千石は伊武との距離をほぼなくして、そのまま肩を抱き寄せて伊武と同じように目を閉じた。普段から睡眠時間は短くて済むのでこうしていても睡魔は訪れないのだが、伊武の傍にいるのは心地がよい。
 他の人と比べると体温の低い伊武はただ触れるだけだと冷たい印象があるがそれすらも千石には温かいのだ。夏でも冬でも関係なくその温かみが欲しいときがある。今まではどんなときも一人きりでいたのだったが、伊武と出会ってからは一時でも長く一緒にいたいと願うようになった。それは幸せなことだと千石は考えている。

「…あ、そうだ、ねェ伊武君」
「………なんですか」

 半分眠っていた伊武は面倒臭そうに答えた。千石は一つ謝ってから、明日の事だけどと云う。
「明日の最初と最後は一緒にいようね。どうせ日中は神尾君達にとられちゃうし」
「……いいですよ」
「よかった」
 そして再度目を閉じた伊武に千石は微笑みかけた。

 多分あと三時間ほどで授業が全て終わり部活が始まるんだろう。伊武と喧嘩をした神尾は橘に背中を押されて眉間に、緊張と意地による皺を寄せたまま携帯電話を手にして。着信音がなるのは千石の携帯電話だ。喧嘩の最中に伊武が電話に出てくれないことくらいは分かっているくらい長い付き合いなのだから。そして、緊張と意地に押されたまま大声で今日は悪かったとでも云って神尾は電話を切るのだ。
 いつものようになるであろう展開と、明日の予定を考えて千石は伊武の頭にこつんと自分の額を当てた。自然と笑みがこぼれる。楽しいなと気付いたときには片足を夢に突っ込んでいた。



 予想通り、三時間後に携帯電話の着信音で目が覚める。
 それから全く想像していたとおりに進んだ展開に口元に笑みを浮かべて、それから時計の針が真上に差し掛かった頃に千石は真正面から伊武を抱き締めて一言呟いた。



「生まれてきてくれてありがとう」



 その言葉のあとに伊武の口から、別に千石さんの為じゃないという言葉が零れたが聞こえないフリをして。笑うと伊武もつられたように笑った。抱き締めていると千石の体温と伊武の体温とでぬるま湯に浸っているような気分になってその幸せな感覚に溺れかけたが、煙草を咥えて火をつけるという行為でなんとか理性を保った千石が笑った。
 
 

051103 お誕生日おめでとうございます