訊いてもいいですか? と、少し俯いた君は、
 酷く儚く脆く見えた。
 訊く前に抱き締めていいなら、と云うと
 君の目が少し笑った。

 

 







 

 

 





「一年間会わないと、忘れたりしますか」

 汗のせいで肌に張り付いたシャツを指先でつかんで、パタパタと扇ぐ。送り込まれた風が冷たく心地いい。足元に落としていたラケットを拾い上げるのも面倒臭く足先で傍に引き寄せた。ずるずると音を立てたそれによって地面に縦線が残った。

 その中で君の声はやけに耳についた。

「そんなことはないよ」
 隣から聴こえた言葉を耳の中で何度も反芻して、明確な答えは見つからなかった。俺なら忘れたりはしない、でも俺以外の事は保障できないんだ。だって俺は神様じゃなければアイツでもない。
 陽に照らされて真っ白になった遠くのコートに、真っ黄色のボールがぽつんと落ちていた。もしかして君は今あんな気分?
 問いかけてみようかと思ったけど、君は両手で抱えたラケットの先をただじっと見詰めていて、それがあまりにも綺麗だったので俺はただ言葉を失った。儚く脆く弱く見える君が愛しいだなんて云ったら、君の熱視線を浴びたラケットの先が俺のコメカミに強い衝撃を与えるなんてことは予想するに容易だった。
「千石さんは、絶対忘れませんよね」
「忘れたくないからね。伊武君は?」
 何処か虚ろな視線を上げる、その君の目に俺はどう映っただろう。
「…どうでしょうね」
 間違っても希望とかそんな言葉とは遠くかけ離れていたと思う。こんな時ひたすらに真直ぐな神尾君や歪んではいるけれど垂直な跡部君が羨ましい。気のきいた言葉一ついえない。どうしよう、と思って、とりあえず君の頭を撫でてみた。少し驚いた顔をした君が、やがてその頭を俺の肩に乗せた。
「神尾たちにも云う訳にはいかなくて、」
 ポツリと、声が漏れた。
「千石さんって、人の相談受けるの得意ですか?」
「真面目に受けなくていいなら得意なんだけどね。伊武君の悩みなら、誠心誠意答えなきゃだよねェ」
 口元に笑みを浮かべると、胡散臭そうな視線が飛んできた。
「話すのやめようかなァ」
「話さなくても千石さんには何でもわかりますよ」
 嘘じゃないよ。君の事なら、俺の事よりもよくわかるかもしれない。右手を君の肩にまわして、安心させるように軽く抱き締めた。
「寂しい?」
 顔を覗きこんでそう云うと、少し眉間に皺がよった。
「今はまだ、一緒にいますから、わかりません」
「だよね。でも、なんだかんだで大丈夫だと思うよ。いざとなっても。」
 勿論なにか確証があっていったわけじゃない。
 俺と伊武君はもともと近い距離にいたわけじゃなし、今だって近いようで実は遠くにいるのかもしれない。伊武君にとっての身近な人間というのは決して俺じゃない。それに俺は今まで身近な人間関係というものを全く築いてこなかったから、今の君の気持ちはあくまで君の気持ちで、俺の意見をどうこう云うものではなかった。
 だから君が俺の腕の中で、本当ですかと呟いたとき、俺は曖昧に笑みを浮かべるに止めた。
 今まで大切で大事で尊敬していた“先輩”が、傍からいなくなってしまう寂しさも悲しさも、今の俺には想像できない。

「テニス、しよっか」

 やっと足元のラケットを拾い上げた。真っ白に浮かぶ真っ黄色の存在感がいきなり増したように思えた。それは俺のただの妄想に過ぎないのかもしれないけれど。
 君と彼を繋ぐのはただの強さだ。それを失くさなければ、君は寂しい想いなんてしなくて済むだろう。したとしても、きっとたったの一年だ。

 ラケットを強く握って心臓を落ち着かせるように深く呼吸を二回した。陽射しが強い、君が僅かに目を細めている。それを綺麗だな、と思ったのと同時に、伊武君にそれだけ慕われてるアイツに少し腹が立った。


 でもそれも、真っ青な青空にボールが浮かんだ時にどうでもよくなった。少し重い音と衝撃が、満たされつつあるからっぽの欲望の中に深く果てなく広がり跳ねた。




 

 

 

 

橘さんが卒業するのが堪らなく寂しく感じる伊武君の話
千伊武っちゅうか、千石と伊武



200506029